東京大学史料編纂所

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正倉院文書調査

 昭和五十五年度の正倉院文書調査は十月十九日より二十五日まで、例年の如く奈良市正倉院事務所に出張し、その修理室に於て原本調査を行なった。今年度から従来の調査の続行と共に、正集以下の既調査部分の調査の整理を行なうこととした。それについては改めて報告することとし、東南院文書の調査を報告する。
○東大寺開田図の調査(続々)
 東大寺開田図中東南院文書に入っている「阿波国名方郡新島庄絵図并同郡大豆処絵図」(第三櫃第二十五巻)・「摂津国島上郡水無瀬庄絵図」(第三櫃第三十三巻)の調査を前々年度・前年度に引続いて行なった(本所所報一四号所収採訪調査報告19「正倉院文書調査」・同一五号所収採訪調査報告24 「正倉院文書調査」参照)。前者中の「大豆処絵図」及び後者についての補足調査の結果を記したい。
〔阿波国名方郡新島庄絵図并同郡大豆処絵図〕
B、大豆処絵図
4 作図の手順
 所報一四・一五号の同項に記したこととあわせて、訂正も施して、次の如く書き直したい。
�条理線 横線(南北線、A〜D)は押界の上に墨線を引く。縦線(東西線、a〜j)は墨線のみである。Ag交点では、道の交差による四辻の存在を考慮して、A及びAの東側の道側線とgを道路巾だけ途切らせている。
�道の側線 条里線より薄い墨書。g上の道が元来はCまで達していたことは�で述べる。なお、g上の道の延長のDg交点付近からEi交点の下を通り斜行する道は側線がなく、「道」の字と彩色のみで表わされている。
�川の汀線(第一次) 川の波形の墨書線を熟視すると、『大日本古文書』東南院文書之二所収の図版からもある程度判読できることであるが、川の汀を示すらしい薄い墨線が波形の下に断続的に存在することがわかる。その形状は図5の如くである。現状では川巾は一町から一町半の広さであるが、波形の下に残る汀線によれば西側がせばまって、半町から三分の二町程の川巾になる。以下においては、波形の下に残る汀線を第一次汀線、現状の汀線を第二次汀線と称する。
 第一次江線について、便宜に図の左から右に順を追って説明しておこう。
 第一次汀線の東汀線は、jでは約一�第二次汀線より内側にあり、iより第二次汀線に一致する(即ち、第二次汀線が第一次汀線を踏襲するように見える)が、ji間の第一次汀線らしき薄い墨線は第二次汀線にもとずいて書かれた波形の墨線である可能性もある。したがって、図5では一点鎖線で示しておいた。第二次汀線にもとずく波形の墨線は濃墨と薄墨の二色があるので、薄墨の波形と第一次汀線の区別には注意しなければならない。はっきりとした第一次汀線の痕跡は、西側汀線の一部分しかない。川巾の拡幅により不要とされた部分は、軽度の擦り消し(または水洗による消しか)が加えられていて、痕跡が薄い墨色になっている場合が多いからである。なお、第一次の東側汀線はiより右方では第二次の汀線と一致しているらしいので痕跡としては残ってはない。
 第一次汀線の西側汀線は、ji間は「大川」の文字の下に入りこんでいるので、Di交点より斜左下方にのびて、川の字の第一画と第二画の間の下部に数�入って全体として約一�残るだけであるが、Di交点を通って右方へは途切れながらも断絶的にCD・hi坪を斜に上り、Ch交点の下方約二・二�を通るらしい(この部分のhは第一次汀線の擦り消しのためか途切れている)。そこからCのgとの交点の約五�左を通り、gのCとの交点の約三�上を通り、途切れながらも斜めに上って、BC・fg坪のgより約一・七�、Cより約一・二�のところでC・Dと平行になるが、六〜七�で途切れてしまう。
 第一次汀線の西側汀線がCのgとの交点の約五�左を通るのは、第一次汀線の設定の段階では、gの道がCまで到達しておりCg交点が〃渡〃となっていたためである。g上の道のBC間については、波形の下にgとgの左の道路側線の擦り消し痕が残っている。道の左側線と第一次汀線のCとの交点が一致しているのであり、このことは、第一次汀線とCの交点は地図上ではCg交点より左へずれているが、地形上ではg上の道とCとの交点を通っていたことを示すのである(これは道巾が十数mではないと仮定した場合である)。なお、gの道と「川渡船津」については後述する。
 第一次汀線の西側汀線は、BC・fg坪の右半においては、消されたのと、水鳥の絵が後に描かれたために痕跡が残っていないが、BC・ef坪とBC・de坪においてはほぼ連続して痕跡が残っている。それは、fe間ではCより約一・五�上方をほぼ直進し、ed間のeから約一・五�のところからdのCとの交点の約三�上を通過して、BC・cd坪の左下隅を斜にかすめて、Cのdとの交点から約七�右のところを通り、CD・cd坪のdから約二�のところで途切れる。しかし、その線を延長すると、CD・bc坪のc付近のCから約一・五�下のところからbのCD間のほぼ中央にむけて断続的に第一次汀線の西側汀線をたどることができる。更に、CD・ab坪では、それはbのCD間のほぼ中間から斜めに下がり、bより約二�右のところで第二次汀線の西側汀線に合わさる。これより右方においては恐らく第一次・第二次の西側汀線は同位置であったのだろう。
�文字の記入(第一次)表題部、「板野郡与名方郡堺」、AB・cd坪のA上の道路の「道俣」以外の「道」字、東西南北の方位と、各坪内の地目(「畠」「川成」)田積(「一町」等)が書かれた。
 表題部の「大豆処鄙」の「鄙」字は後筆で、第一次の文字記入の際は「口」(クニガマエ)の文字であったことが擦り消し痕からわかる。「圃」の字であったのではないだろうか。
 「道」に関して、前二回の報告では、DE・hi坪の「道」字を道路彩色のあとに書かれたものと考えたが、再調査の結果、彩色は「道」字の書かれたのちに行なわれたことが判明した。なお、BC・bc坪、天A・bc坪、AB・fg坪、天A・gh坪、AB・ij坪の「道」字部分は彩色が施されていない。
 坪内の地目・田積については、詳細は別に論じるが、AB・cd坪、BC・cd坪の二つの「畠一町」の記載は第一次の記入と同筆ではあるが後次のものであり、第一次の文字記入の際には存在しなかったのである。第一次の文字記入の際は、図5において坪の右上隅に※を付した坪(AB・de坪、AB・ef坪、AB・fg坪、BC・de 坪、BC・ef坪、BC・fg坪、CD・de坪、CD・ef坪、CD・fg坪、DE・ef坪)に地目・田積記載があった。BC・de坪は、文字の残画は不明である。しかし坪の中央上部の紙面が荒れ、約一字分の紙の欠損があるから、これは第一次の文字記入の際に記された文字を擦り消したことに起因するものであろう。BC・ef坪には中央上部に「畠」(所報一四号で「畠一町」としたのは読みとりすぎであった)の字の擦り消しの残画があり、BC・fg坪の中央上部にも「畠」の字の擦り消しの残画があり、CD・de坪の中央下部には「川成」の字の擦り消しのはっきりした残画がある。
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�川の拡幅 第一次汀線の西側汀線を消し、gのBC間のCから上へ三分の二をgの左側の道路側線と共に擦り消し、BC・de坪、BC・ef坪、BC・fg坪の地目・田積の文字を擦り消して、現状の第二次汀線の西側汀線まで川巾を拡幅した。そして川巾一ぱいに波形を描いた。なお第一次汀線がその西側汀線によれば単線による表示であったのに対して、第二次汀線は東西ともに汀線自体が波形の描線と一体化している。
�文字の記入(第二次)川巾を拡幅したために減じたBC・de坪、BC・ef坪、B C・fg坪の三坪分の畠のかわりに、AB・cd坪とBC・cd坪の二坪に「畠一町」の文字を記入した。これで首部記載の畠五町八段二百歩が再び図上で確保されたのである。また同時に、CD・de坪の「川成」の文字を擦り消した。川成が首部記載通りに四町百六十歩になるためには、現状の「川成」の表記部分だけでは足りないが、その理由については未だ成案を持っていない、川の部分をも川成に算入しているのであろうか。
 この時、「川渡船津」の文字も書き加えられた。「川渡」の二字は墨がにじんでいるが、これは川巾の拡幅によりgと道側線を擦り消したために生じた紙面の荒れに起因する。
 以上は全て第一次の書入れと同筆である。
�彩色 川の波形の上から薄く白緑がぬられ、道路には黄土様のもので薄褐色の彩色が加えられた。
�文字の記入(第三次)AB・cd坪の「道俣」の文字や、川の南端の「大川」の文字が、道や川の彩色の上から書かれた。この時水鳥二羽も描かれた。第一次・第二次と同筆である。
 以上は、作図の手順についての、絵図の現状に関する事実の上に調査者の私見をまじえた試論である。それによれば、川巾の拡幅に伴なう当初の記載内容や描写の改変が、絵図が作成された後に別人によってなされたのではなく、同一人により絵図の作成中に行なわれたものであることを指摘することができる。川巾の拡幅の結果、寺地は北西に二坪分張り出した。川巾が実際の地形において拡がったとすれば寺地の広さに変化はないが、川巾の拡幅が単に地図上の操作にすぎないとすれば寺地は二坪分広くなったことになる。
    *    *
 〔摂津国水無瀬庄絵図〕については標紙自体、標紙と第一紙の接合状況、彩色等に注意して再調査した。それらについては次年度の正倉院文書調査の採訪報告にあわせて報告したい。
  図5凡例
1、A〜E、a〜jの界線は中太ケイ、紙の縁辺はオモテケイ、第一次汀線はウラケイ・同破線、第二次汀線はオモテケイ、第一次汀線かとも考えられる西側汀線はウラケイ一点鎖線、gの擦り消し痕は中太ケイ破線、gの左の道側線の擦り消し痕はオモテケイ破線で、それぞれ表記した。
2、文字は必要なもののみに限った。「 」を付した文字は擦り消されたものである。
3、※を右上隅に付した坪は第一次の文字書入れの際に地目・田積の記入された坪である。
                  (土田直鎭・皆川完一・岡田隆夫・石上英一)


『東京大学史料編纂所報』第16号p.93